2014年04月01日
2014年 琉球新報 「落ち穂」コラム掲載
母と桜色
沖縄から出たのが24歳の時。父親の病がきっかけだった。最初の在住地名古屋で見た満開の並木。何よりも感動したのは、桜吹雪。桜の散りゆく潔さから、生まれて初めて「儚い」って言葉を理解できた。満開の桜の下で、花見の宴を楽しんでいる人々。その光景を親にも見せたいと思った。
残念ながら父とは、一緒に見る事は叶わなかった。その分、住むところが変わる度に、母を呼んで一緒に花見を楽しんだ。最初は、東京上野公園。人の多さに圧倒されていた母だったが、うっとりと見入っていた。東京観光も楽しんだ。ミーハーで大地真央の舞台も見に行った。母とでなければ、見る事もなかっただろう。次は、札幌円山公園。札幌の花見は、ジンギスカンバーベキューが定番で、肉を焼く煙と匂いでいっぱいだ。きっと寒い中での花見だから、暖をとる意味でもバーベキューなんだと、勝手に解釈し説明した(笑)そして、東京新宿御苑。近くに住んでいたので、休みの日は散歩と読書を楽しんだ場所。だから、一番の場所を知っていた。普段は緑の芝生だが、その日は、桜色のジュータンだった。風が吹く度、舞い散る桜の花びら。その美しさに魅了され、会話がほとんどなかった。お互いいろいろと想像し思いをつのらせていた。それまでで、一番の桜吹雪を見る事ができた。最後は、大分別府での花見。勤務地ではなかったが、ゲストハウスの常連客がいたので、温泉旅行で行ってきた。別府地獄めぐりをしながらの花見は、それまでの光景と違い面白かった。「地獄と桜」他では見れない桜吹雪だった。
母は私が小さい頃よくピンク色の服を着せてくれたような記憶がある。高校3年間は、毎日ピンクのお弁当箱を持たせてくれた。偏食が激しかった私の弁当の中身は、ごはんとポークとたまご焼きに野菜チャンプルー。卵焼きは友人達にも人気で、よく他の惣菜と交換されていた。
離れて暮らしたから、母の優しさが心にしみた。私は、今でも昔のまんまのわがまま娘だと思う。感謝の気持ちでこれからも母に色々見せていきたい。元気に健康で宜しくお願いします♪
沖縄から出たのが24歳の時。父親の病がきっかけだった。最初の在住地名古屋で見た満開の並木。何よりも感動したのは、桜吹雪。桜の散りゆく潔さから、生まれて初めて「儚い」って言葉を理解できた。満開の桜の下で、花見の宴を楽しんでいる人々。その光景を親にも見せたいと思った。
残念ながら父とは、一緒に見る事は叶わなかった。その分、住むところが変わる度に、母を呼んで一緒に花見を楽しんだ。最初は、東京上野公園。人の多さに圧倒されていた母だったが、うっとりと見入っていた。東京観光も楽しんだ。ミーハーで大地真央の舞台も見に行った。母とでなければ、見る事もなかっただろう。次は、札幌円山公園。札幌の花見は、ジンギスカンバーベキューが定番で、肉を焼く煙と匂いでいっぱいだ。きっと寒い中での花見だから、暖をとる意味でもバーベキューなんだと、勝手に解釈し説明した(笑)そして、東京新宿御苑。近くに住んでいたので、休みの日は散歩と読書を楽しんだ場所。だから、一番の場所を知っていた。普段は緑の芝生だが、その日は、桜色のジュータンだった。風が吹く度、舞い散る桜の花びら。その美しさに魅了され、会話がほとんどなかった。お互いいろいろと想像し思いをつのらせていた。それまでで、一番の桜吹雪を見る事ができた。最後は、大分別府での花見。勤務地ではなかったが、ゲストハウスの常連客がいたので、温泉旅行で行ってきた。別府地獄めぐりをしながらの花見は、それまでの光景と違い面白かった。「地獄と桜」他では見れない桜吹雪だった。
母は私が小さい頃よくピンク色の服を着せてくれたような記憶がある。高校3年間は、毎日ピンクのお弁当箱を持たせてくれた。偏食が激しかった私の弁当の中身は、ごはんとポークとたまご焼きに野菜チャンプルー。卵焼きは友人達にも人気で、よく他の惣菜と交換されていた。
離れて暮らしたから、母の優しさが心にしみた。私は、今でも昔のまんまのわがまま娘だと思う。感謝の気持ちでこれからも母に色々見せていきたい。元気に健康で宜しくお願いします♪
Posted by 沖縄アートギャラリー at 06:00│Comments(0)
│コラム
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